TOMITA!!

月の光

月の光

 私の家の近所にこじんまりとした商店街がある。現在、そこの半分は店を畳んでしまい、店先のシャッターが降りている所が目立つ。後継者問題と賃貸契約の満了、などが頭に浮かぶが、やはり直接の理由は(単純だが)、スーパーの林立(商店街の真ん前に、馬鹿でっかいのが2つも)によっての商店街の存在意義の消滅であろう。新興住宅が建ち始めた二十数年前には活気があった商店街もすっかり寂れ、ついこないだは、ご贔屓にしていた精肉店が、何の前触れもなく店を閉めていた。
 ――目の前の現象が消え失せても、記憶(「思い出」といった方が正確か)は、(忘却しない限り)その人の心の中で生き続ける――。しかし、「ある」と思っていた存在がいきなり目の前からなくなってしまうと、なんと言うか、「記憶に穴が空いた」ような感覚を覚えるのだ。
 「あった」ものが「ない」…。なんとももどかしくも寂しい。それは大切な、子供の頃の記憶がますます遠くなってしまうように感じるからだ。
 子供の頃の記憶、そう、それはふとしたときに記憶の箱から漏れ出て様々な感情を呼び起こさせる。
 あるメロディの断片がある。
 商店街の一角のある店。今はもう、別の業者が入れ替わり立ち代わりに入り、店をやっているが、そこは元々は長く続いた書店が店を構えていた。
 二十数年前、私は小学生だった。
 ちゃんと帰宅してからでないとお店には寄ってはいけないので、家にカバンを置き、急いで書店に向かう。当時私は、マニアックな仮面ライダーのカード集めに執心していた。
 その頃でも年代落ちしているような若干古い品物。明らかに私しか買っている人はいなかったが、誰かに買われるのが嫌で、週に数回、ちびちびと買い集めていた。それをA3サイズのデカい冊子型の台紙に糊でペタペタと貼り付けていくのだ。(なんとも友達要らずの趣味(爆)。この頃から時流とは関係ない、自分が好きなものにひたすらのめり込む性質が培われて来たような気がする)。
 ちょうど書店に行くのが4時頃。店内ではうっすらFM東京(TOKYO−FMではなく!)が流れている。しばらく店内をうろつき、「〜大百科」系の本などを立ち読みしていると、例のメロディが流れてくる。
 …うわっ、なんともいえない、体が浮き上がるような感覚。まるで宇宙に広がっていくようなサウンドに心を奪われた。
 するとそこにナレーションが被って来て番組の本編に…そこでオシマイ。でもその音は頭に残っていて、書店からの帰り道、自転車を漕ぎながら、知らず知らずの内に、あのメロディを頭の中で反芻していた。それからも、忘れかけた頃になるとひょっこり記憶の山から顔を出す、そんな存在となった。
 その、頭にこびり付いていたメロディは、最近になり、冨田勲が演奏する、ドビュッシー作曲「アラベスク第1番」である事を知った…。


 最近、自分の音楽の原体験について良く考える。いわゆる自分にとっての「ルーツ探し」だ。思えば、幼稚園〜小学生の頃は潤沢な音楽体験の宝庫であった。何の見栄も衒いも無く、その場に流れてきた音楽に素直に心を躍らせる――そんな純粋に音楽を楽しむ、良いなと思った音楽なら、何でも喜ぶ「音のグルメ」的な志向を持っていた、と今になって思う。
 家のTVから…真新しい校舎から…時々かけるアニメのレコードから…走っている宣伝カーから…母の子守唄から…旅行中の車のラジオから…商店街のスピーカーから…公園で…渋谷の映画館で…20分休みの校庭で…音楽の授業で…よく晴れた日の遊園地で…給食を食べる教室で…でっかい駅の構内で…そして、書店の店内で…とにかく聴いた、というか入ってきた、音楽が。なんでもかんでも。
 今は意識的に、あらゆる音楽を聴いてやろうと思い、日々耳をそばだてているが、もしかして今は、その頃の(様々な音楽に囲まれた)楽しさ、高揚感を無意識に追体験しようとしているのかもしれない…そんな風に思う。


 …これから、「記憶の主」にゆっくりと浸ろうと思う。今度は以前よりも、顔がはっきり見えるはずである…。
 冨田作品、祝紙ジャケ化!!!


(※紙ジャケ・リイシュー盤は去年既に出ていた様ですね…もちろん知りませんでしたよ…というか、紙ジャケ再々発だったようで…僕にとってはどっちにしてもお初でしたが。)